親の看板ではなく、自分自身で勝負する決意
――本日はお店にうかがわせていただきました。新型コロナの影響は落ち着きましたか?
おかげさまで、夜は22時までの短縮営業ですが、三軒茶屋の街にも人が戻っています。コロナ禍でテイクアウトも始めたのですが、こちらも好評いただいています。
※取材は9月中旬に実施
――この度のご苦労も多いと思いますが、もともとは福島で居酒屋をされていたとうかがいました。
実家が福島の双葉町にあって、そこで両親が“キッチンたかさき”という洋食屋を営んでいました。将来的には店を継ぐつもりで何年か他で調理の仕事に就いた後、実家の近くに自分の店を構えました。まずは経験を積んでから看板を継ごうと。それが2009年です。
――当初はどんなお店だったんですか?
普通の居酒屋でしたが、地元で父親は名の知れた存在で、その息子の店だとお客さんも結構来てくれていたんです。ところが2011年に東日本大震災が起きて、それまでとはガラリと状況が変わってしまった。
――震災の影響は、計り知れないことと思います。
それまでは、良いかどうかは別にして、原発があることで安定的に人がいて町には賑わいがありました。2011年時点では追加であと2機、原子炉が建設される予定で、さらに人も集まって町が発展していく期待感もありました。ところが、震災でそれが一瞬でなくなってしまった。でも逆に考えると、足かせがなくなったような気もしたんです。自分の可能性が広がったというか。
――そのような状況で、未来に目を向けるポジティブさに脱帽です。
地元のみんなが知っている “キッチンたかさき”の息子から、ただの高崎丈になったというか。これからは自分自身が評価されるんだと感じました。震災の翌月には古巣の居酒屋に戻らせてもらって、すぐに働き始めました。あの頃って全国のみなさんが、飲食を通じて東北の復興を応援してくれていたのでとても忙しかったんです。
――その後お店をオープンさせたんですね。日本酒は当初からこだわっていたのでしょうか?
いや、最初は福島の店同様に普通の居酒屋でした。燗酒も出してはいたけど、プロフェッショナルとして成立するものとは考えてなかったんです。そんな自分に、燗酒Bar Gatsのマサさんというお店の常連さんが燗酒を教えてくれて、そこから燗酒の魅力にハマっていきました。
▲双葉町に開かれた高崎さんのお店『JOE’SMAN』