SNSでの誹謗中傷は、規範を失った日本の汚点
他者への差別や偏見は、SNSにおける批判という形で助長されているように感じます。分断が目立つようになったのも、インターネットの台頭が影響しているのでしょうか。
良くも悪くも、日本はかつて“村社会”でした。困った時には助け合う素晴らしい習慣であった一方、同調圧力から少しでもはみ出すと、村八分という制裁を受ける社会でもありました。現代社会のSNSではその負の側面だけが残ってしまっているように見えます。コロナ禍におけるマスク警察はその象徴。誹謗中傷による自殺など、悲惨な出来事が起こるのもここに関係していると思います。寛容さが失われているのです。
寛容さを取り戻すことは、日本人にはできないのでしょうか。
日本人は規範によって、一定の道徳を保ってきました。村という制度、村八分があるからこそ、みんな良い人だった面もあるわけです。仏教や神道などの伝統宗教も、ある面、悪行の報いを受けることへの怖れが規範につながっていました。それが明治維新、さらに戦後へと時代が進むにつれ、村も規範も失われていった。都会に出て好き勝手に生きるように、資本主義は促すからです。アメリカでは様相が少し異なります。中心にキリスト教がある。保守派クリスチャンと革新派の対立は過激ですが、中心に思想があるからこそ起こる対立なわけです。一方の日本は、近代化とともに、思想のないまま人々がバラバラになった。中心のないカオスの状態に陥っているともいえます。
日本人が多様な価値観を受け入れていくには、何が必要なのでしょうか。
答えはとても簡単です。障がい者や女性、外国人などのマイノリティを差別すべきではないということを、しっかりと理解するリテラシーを持つこと。大きな役割を果たすステークホルダーの一つは、教育とメディアです。例えばアメリカでは、障がい者の呼称を「disabled(ディスエイブルド)」から「challenged(チャレンジド)」に変えました。「挑戦する使命やチャンスを与えられた人」と呼ぶわけです。こうしたマインドチェンジは、学校教育や社会人教育、メディアが担うべきですが、日本は大幅に遅れています。