ありのままを受け入れてくれる場所が芸能界だった
ーー加藤さんは幼少期から芸能界で活躍されていますよね。きっかけは何だったのでしょう?
5歳の頃からミュージカルスタジオに通っていたこともあって、昔から舞台を見るのが身近で、とても好きでした。母は舞台がすごく好きな人だったので、毎月「親子劇場」に連れて行ってくれたり、家族で映画を見る時間があったりと作品鑑賞にはお金を惜しまない、エンタメ好きな家族で。
地元の静岡市葵区七間町には「シネマ通り」と呼ばれた場所があるのですが、そこに日本の怖い映画からディズニー映画まで、かなりの頻度で色んなジャンルの映画を見に行っていました。
ーー見るのが好きな一方で、「演じたい」と思ったのも同じ頃?
スタジオに入った時はあまりお芝居には興味なくて。それよりも吉本新喜劇の番組『超コメディ60!』に出ていた藤井隆さんや山田花子さんを見て、「人を笑わせること」ってすごくいいなと思っていました。それから常に周りの人に藤井隆さんのモノマネを見せたりしていました(笑)
ーー最初の動機は「人を笑わせたい!」だったんですね。
2000年から出演していたバラエティ番組『あっぱれさんま大先生』(※フジテレビ系列で放送されたフジテレビ制作のバラエティ番組)に出たのも、「人を笑わせたい」意欲があったからなのかなと思います。昔から僕は姉の影響か、女の子のようなふるまいを無意識にしてたのですが、明石家さんまさんがそんなポイントを「おもろいやん!」と、個性を引き出してくれたんです。
学校の同級生からそんな言葉使いを「気持ち悪い」と言われることも多く、モヤモヤしてたのを、「エンタメの世界ではありのままの姿を受け入れてくれるんだ」と、自分の居場所を見つけた気がしました。
ーーそんな個性を自分に感じながらも、子役時代はたくさんオーディションも受けられていたんでしょうか?
静岡に住みながら、自分と内容が合うオーディションを中心に選んで受けていました。
そんな中で一段と本格的にお芝居をやって行きたいと思うようになったのは、『HINOKIO』(2005)という作品に中学2年生で出演した時です。CGのロボット相手に演技をしないといけなくて、何もない所に向かって演技をするのってとても難しかったんです。けれど完成した映画を見ると、自分がロボットときちんと繋がり対話していることに感動しました。それに通っていた地元の映画館にも『HINOKIO』が放映されたのが本当に嬉しかった。
でも、それからは全然オーディションには受からなかったです。
ーーやりたいことに辿りつけない、苦しい時期も経験されているんですね。
ずっと「いつか誰かが見つけてくれる」と思っていました。何度も心が折れそうになって、体調を崩してしまったこともあったんですけど、とにかく自分を信じていましたね。
ーー子役時代を経て、加藤さんは多摩美術大学の映像演劇学科に進学されましたよね。
舞台や映画の裏方を学びたくて大学に入りました。最初は「自分で映画が撮れたらいいな」と思っていたんですけど、なかなか僕には難しくて。当時は友人から「舞台に出て」って誘われたらお芝居をしたり、舞台セット組んだりの生活が続きました。
ーーこれまでは演じる立場だったのに対して、どうして大学では支える側に立ったのでしょうか。
お芝居は事務所のレッスンや現場で学ぶことができるんですけど、裏方の仕事を学べる機会は大学しかないと思って、一度きちんと学んでみたかったんです。裏方の仕事を経験したことで、お芝居に対する視点や気持ちも幅広いものに変わっていきました。
それに大学ではエンタメの世界を目指す学生たちが集まっていたので、そこで出会った友達は僕のありのままを受け入れてくれて、とても気が合いました。卒業した今でも仲のいい友達です。