勝つことでしか幸せになれない、なんてないはず。
前編では、矢部さんのお気に入りの作品について聞かせていただきましたが、小さい頃からいろんな作品に触れていたんですか?
そうですね。もともと体力がなくて運動も得意ではなかったので、競争しても1位になれなかったんですよね。当時は競争しなくてすむことって何だろうと考えて、いろいろ試したと思います。それで本を読むことであれば、純粋に競争しなくていいなあと思ったんじゃないかなと。
競争したり人と比べたりすることに、あまり意味を感じていなかった?
そうですね。身体が弱いし、経済的にもすごく恵まれていたわけではないから、自分にはないものとかできないことがあるというのは自覚していたんですよね。でも、本の中にはいろんな価値観があって、競争して勝つことが全てではないと教えてくれたから、助けられていたなと思います。
なるほど。本の中では、強かったりお金持ちだったりする人が必ずしも優位に立つわけではないですもんね。実際、矢部さんの漫画を拝読していると「できないことはできない」のままでいいんじゃないかと励まされるところがあって。ある意味、割り切っているというか。
そうかもしれないですね。でも、もし競争していい結果が出ていたら、こういう考え方にはなっていなかったのかもしれません(笑)。
(笑)。一方で、素人からすると、矢部さんのいらっしゃるお笑いの世界はまさに競争社会のようなイメージがあって大変そうだなあと思うのですが……。
たしかにコンテストなども多いし、売れる売れないとかも含めてお笑いの業界はそういうものだっていうイメージを持たれている方は多いですよね。実際に、勝つことや売れることに一番のモチベーションを持ってやっている方も多いだろうなと思うんですけど、僕はそうじゃなくて。
ふむふむ。
僕自身は、みんなで面白いことをつくっているのがいいなと憧れてお笑いの世界に入ったし、何が一番のモチベーションかは人によって違うと思うんです。
コンテストで優勝することかもしれないし、大きな会場の舞台に立つことかもしれない。自分の好きな表現をすることが一番大事だと思う人もいますよね。それは芸人以外のパフォーマンスをしている人たちも同じで、いろんな価値観の人がいると思うんです。
たしかに「芸人さん」と一括りにして勝手なイメージを抱いてしまっていましたが、芸人さんの数だけその世界に飛び込むに至った思いがあるわけですもんね。
最近、週刊モーニングで始まった連載の『楽屋のトナくん』は、まさにそういうことを描いていて。動物園の動物たちの楽屋が舞台の漫画で、売れることを望んでいる人もいるけど、そうじゃなくてただ仕事でやっている人もいるという日常を描いていくことになると思うんです。それは、実際に僕がそういう日常を見ているからで。
『楽屋のトナくん』矢部太郎(2021年9月〜)
先輩にはいびられ、後輩には舐められ、お客さんには気づかれない主人公・トナカイのトナたろう、ちょっとガサツでデリカシーのないスカンクのポール先輩、元気すぎるお猿のアーコ、大人気のパンダくんなど、どこか見たことあるような動物たちの楽屋での悲喜こもごもなアニマル賛歌。
主人公のトナ太郎は、矢部さんご自身を投影している?
物語自体は100%フィクションですが、僕自身、楽屋という場所にいることもあるので、自分自身の可能性もあるかもしれないですね。競争から落ちこぼれた人たちというか……なんていうのかな。
たとえば『桃太郎』の舞台であれば、物語の主役である桃太郎役の人を観に来るお客さんが多いのかもしれないけれど、エンターテインメントの舞台って実際にはいろんな役の人がいて成立してるわけじゃないですか。鬼Fくらいの役の人だっている。今回はそんな人を主人公にしている感じです。
最近では、馴染み深い物語の悪役や脇役に光を当てて主役にする作品も増えていますが、それにも近いのかもしれないですね。スポットライトを当てる位置を変えるだけで、物事を見る視点や正しさの基準も変わる。その当たり前に気づかせてくれる作品は、すごく貴重だなと思います。
そうですね。鬼F役にしても、彼には彼の日常や幸福がありますし、絶対に勝たなきゃいけないとか、勝つことでしか幸福になれないなんてことないはずで。そういうことをこの連載では描いていきたいなと思っています。