私は新文芸坐オープンと同時にアルバイトとして働き出した。そこからの20年は映画とともに過ごす恵まれた時間であったと同時に、不特定多数の人間が集まる場所での価値観との対峙でもあった。
1年目、印象深いことがあった(その後同様のことは何度も経験することになるのだが)。頻繁にクレームを言ってくる初老のお客様がいた。「前のやつがガサガサうるさいんだよ」、「後ろのやつが椅子を蹴ってくるんだよ」、「映画が始まってるのに入場させるんじゃないよ」などなど。私はその一言一言に反射的に対応し、謝罪していた。
ある日その方が珍しく上映開始ギリギリに来た。用事が伸びたのか、電車が遅れたのか、人にはそれぞれ理由があろう。いずれにせよ既に開始のチャイムは鳴り終わろうとしている。「暗くなりましたので足元に気を付けてください」という私の言葉には聞く耳を持たず、小走りで場内に入っていった。場内には段差があり、暗い中での年配の方の入場は注意が必要だ。自由席ということもあり、必要ならば空いている席に手を引いて案内することもある。私は心配になり、その方の後を追って後方の扉から場内に入った。
本編の上映が始まっている中、その方は立っていた。良い席で観たかったのだろう、通路を半分以上進み、中央ブロックを凝視しながら直立して席を探していた。周りからは「見えないよ」、「早く座れよ」、「しゃがめよ」という声が飛んでいた。その方は「見えないんだから仕方ないだろ!」と大きな声で怒鳴り返していた。他の方の迷惑になるので一旦後ろで目を慣らせましょう、と水を向けたものの「うるさい!」と怒鳴り、無理やり中央ブロックの空席に収まった。
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20年前のこの出来事は、当時の私に色々ことを教えてくれた。サービス業に従事する者は苦情には当然真摯に対応すべきだ。しかしそれを発する個人の価値観は様々である。「不特定多数の人がいる空間での快適性」を求めるのか、「自分にとって完璧な空間」を求めるのかでは意味が違ってくるのではないか。
映画館として設備・システム面以外に多い苦情は、スマホ・携帯電話の扱い、おしゃべり、飲食などの物音、前の座席を蹴る、途中入場、といったところが大方を占める。映画館は映画を集中して鑑賞するための場所なので気は遣っていただきたい。しかし、スマホのような明らかにNGなものがある反面、人によって解釈に差があるものもある。例えばシネコンのコンセッションで大々的に売っているポップコーンを食べる音はどこからが苦情の対象になるのだろうか。子供向けの映画を観に来た親子の会話はどこまで許されるのだろうか。何かの拍子に1回だけ前の座席を蹴ってしまったらアウトなのだろうか。事故で遅れた電車に乗っていた人が1分遅れたらもう入場できないのか。不特定多数の人間が集まる場所で完璧は求められない。ルールを大前提としつつ「どこで線を引くか」という問題なのだ。