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20年前のこと、これからのこと。池袋新文芸坐_花俟良王さん

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 オールナイト上映は若者たちの時間だと思っている。歳を重ねると、生活環境が変わり、体力も衰え、なかなか夜通しの上映は辛くなる。だから今だけの贅沢な時間を使って映画を浴びてほしい。寝てもいいから体験として記憶してほしい。そんな思いでやっている。

 次世代を思うとき、リチャード・リンクレイターのことをよく考える。リンクレイターは「時間」を意識している監督だ。クリストファー・ノーランも「時間」に囚われた監督だろうが、ノーランの「時間」が装置として機能するのに対して、リンクレイターの「時間」は過ぎ行く刹那的なものとして描かれる。名もなき人たちが時間を語りつなぐ『スラッカー』から始まり、リアルタイム進行で男女の心の機微を描く“ビフォア”シリーズ、12年間同じキャストで撮り続けた『6才のボクが、大人になるまで。』、必ず終わりが来る能天気な時間を描いた『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』、老境が見えてきたかつての若者を描いた『30年後の同窓会』など、誰にでも有限である時間の中での出来事を慈しみをもって描く。そして何よりあらゆる世代の時間を肯定している。断絶ではなく「認める」という姿勢が心地いいのだ。特に『30年後の同窓会』は、歳を重ねたリンクレイターが同世代の心象風景を描きつつも、決して次世代への目配せを忘れていないことが分かり背筋を正した。映画監督云々の以前に、彼のような「大人」がいることが嬉しい。無限の時間の中に放り出された限りある人生を背負い、どのように生きていけばいいのかヒントをくれる。などと書くのは大げさだろうか。

梅原浩二

 話が広がりすぎてしまった。今回私が言いたいのは冒頭の「線引き」の話だ。まずルールという前提があるが、そこには価値観や状況によりグレーな部分も存在する。私はサービス業として色々な局面に接するが、何をもって線を引くのかと問われれば、迷わず「常識」と答えるようにしている。不特定多数の人に完璧は求められない。常識の範囲内であれば許容してもらいたいと思っている。そうなると次は何をもって常識か、という議論になるだろう。私個人に常識を作ることはできないし、常識というのは常に変容していくものだ。願わくば、2050年の常識が今より寛容になっていればいい。そう思って私は池袋の雑踏から若い人たちに映画を届けている。

テキスト:花俟良王(はなまつ・りょお) 写真:梅原浩二(新文芸坐)

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